タロットやオラクルカードと仲良くなるために一番大事なこと
日本の神仏カードは、私の感じた「日本文化(神仏の世界~遊戯の世界まで)の基底に流れているスピリット」をピックアップして、オラクルカードの様式にしたものです。
「いつか分かる日がくるまで何年もかけて取り組みます!」みたいな嬉しい感想を頂くことがあるのですが、このカードの難しさの最も根っこにあるのは日本語そのものの難しさではありません。
「善悪の二元論や常識の世界を超えて、ありのままの世界を見ようとする鏡のような意識」を要求するところです。
( ドリーンヴァ―チューのオラクルカードの難しさの根底にあるのは「とてもシンプルな楽天主義と、愛こそ全てという意識」を要求するところ、トートタロットの難しさの根底にあるのは「宇宙への圧倒的不信感と宇宙への絶対的信頼感という相反する世界観の両立と、英国的ユーモア精神」を要求するところ、です)
タロットカードやオラクルカードといったツールは、「ツールの根底にある世界観」を理解してもらえることを静かに願っています。そこに向き合う意識をもつかどうかが、カードが「ただの道具」でおわるのか「頼もしい仲間」になるかの分かれ道になります。
神仏カードの場合は「世界のほんとうを知りたい」という意識を理解しようとしてもらえると、カードがただの道具ではなく優秀な仲間になってくれる確率が上がります。
秘密結社は世界を陰で動かしている?
・国際経済の裏で秘密結社が暗躍している?
・宇宙人が密かに社会に介入している?
そういうちょっとアヤシイ話ってなんか面白さを感じませんか?
「信じるか、信じないかは、あなた次第」
みたいな。
神仏の世界に関して言えば
「ほんとうの神様の世界の情報」
がどこかにあるのではないか、という探求はおもしろいものです。
知ろうとすることそれ自体が、不思議な世界との縁をつなぐ重要な要素になるからです。
人間関係に例えるなら「自分に興味がある人」のほうが
「自分に興味がない人」よりも興味がわくはずです。
深淵をのぞきこむことは、深淵からのぞきこまれたい場合に必要なステップです。
ただ、世界の深淵は隠されていないのですが隠されているというのが、
今の時代に生まれた人に起きていることです。
「雨はゆううつ、晴れは気分が良い」これは本当?
私たちの生のフィーリングは、生まれや育ちによって無意識のうちにコントロールされています。
反応の仕方を学習すると、そう反応するのが習慣になるのです。
雨が降った時に、素で反応するなら、「雨だ。恵みの雨だ(気分が上がる)」となるかもしれませんし、「これで野外イベントを中止にできる、ラッキー」となるかもしれません。
常に「雨=ゆううつ」とは限らないのです。
晴れも同じことで、「晴れだ。暑い日になりそうだ(気分が落ちる)」となるかもしれません。
ところが、「雨→ゆううつ」「晴れ→さわやか」という反応を学習してしまうと、人間の感情はそのようにプログラム(自動化)されてしまいます。
私たちが「自分の感情」と思っているものの少なくない部分は、「本当の自分の感情」というより「ロボット的な反応」にすぎないのです。
なので「理性」で「自分のフィーリングを疑う」ということはとても大事なのです。
「ありのまま」を見られない理由1
世の中はインスタントな色眼鏡であふれています。
「眼鏡の男子は勉強ができて頭がいい」 ← イメージだけでみてます
「超ミニスカートの女子はセクシー」 ← イメージだけでみてます
これはこれで便利なものではあります。なんでも本気で見てたら疲れますので。
ドラマの中のメガネ男子がイケメンだったら「カッコいい!知的!」と楽しんで鑑賞するのは特に何の害もないでしょう。
ただ、時には「本当はどうなんだろう?」と疑いの目を持って「ちゃんと見る」ことも大切です。
「ありのまま」が見られない理由2
本当をみるために、「自分を疑う」「常識を疑う」というのはメンタルの体力を使う作業です。
精神力をメンタルポイント(MP)とでも呼ぶなら、
MPが最高値であれば「自分のフィーリングは、あってたり間違ってたりする」というイメージも「自分のフィーリングは100%正しい」というイメージも、矛盾をかかえたイメ―ジを同時に持って平気でいることができます。
MPが最低値であると、1つのイメージしか持てなくなります。単純に余裕がないと、自分の中に「自分はすごい」&「自分はクズ」という相反するものをかかえる余力がなくなるのです。
メンタルポイントが高い時は厳しい言葉からダメージを受けることはないのですが、メンタルポイントが低い時は甘い言葉以外は受けとめられないのです。
意味づけの主導権を取り戻せ
自分の目で「ありのままを見る」というのは、意味付けの主導権を取り戻すことでもあります。
雨=ユウウツ
晴れ=いい気分
という教えられた意味を反射的に出すのではなく、
自分の胸に聞いて意味を選ぶということです。
新知識を学んで使うことで、意味の世界が組み変わる
感覚的に「考えるな。」と言われても、頭の中に入っている情報が古いままだと
「感覚は、過去の自分の常識や記憶によって誘導されてしまう」
という難点があります。
むかし仲が悪かった相手と似た顔の人がいたら、第一印象は「わるいほう」に感じてしまいやすいものです。
新しい知識は、ただ知るだけではなく「使う」ことによって、感性を大きくアップデートするツールになります。
感性を磨いて新境地に至るために、10年くらい山ごもりできるならそういう修業もいいかもしれません。が、現代人に10年修行はなかなか難しいです。精神世界というフィールドだと、無心に「ありがとう」を100万回唱えればものすごい救済がやってくるという修業もあるようです。が、知識の幅が広がってしまった現代人には「100万回念仏で救済」的な昔の宗教的なワザは逆効果になる可能性も高く、あまり現実的ではありません。
ただ、知識を学ぶことを通して感性を整えるという道は、世捨て人になる修行や理性を捨てる信仰を必要とせず、新世界の扉を開くことができます。